我々国民から見た政治家の責務は、国が直面する重大課題を棚卸し、優先順位を付けて、具体的なソリューションを策定・実施することではないでしょうか。
この中の優先課題のひとつが、「日本の教育をどうするか」ということだと思います。
広辞苑によれば、「教育」とは「教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動」とあります。
また、教育基本法の前文の一部を引用すると、「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」とあります。
これは、前文でしかないのですが、教育の本質を分かりやすく記述したものかどうか疑いたくなります。
私の単細胞的発想で言えば、教育の目的は「自分で考え、結論を出し、行動ができる人間をつくりあげる」ということではないかと思うのです。
あえてさらに言えば、この能力を発揮するために何が必要かと言うと、「知識」「智力」「遂行力」「技能」「理念・信条」の5つではないかと思うのです。
「智力」には若干の説明が必要かもしれません。
「智力」とは、与えられた情報を加工して、自分なりの結論を出す力と考えます。
日本人が見落としがちなことですが、この得られた結論を実施した場合に起こり得る「まずい現象」への事前の策を講じておくことも必要でしょう。
また、「遂行力」とは、英語で言うabilityですが、ふつう日本語にすると「能力」となるでしょう。
しかし、英語の辞典を引くと、第一義にはPower to Doとあるように、これはいわゆる日本語の「能力」とはまた別の概念であるため、「遂行力」としました。
これらの5要素の大元は、実はユダヤ教の聖典である『旧約聖書』にあります。
今日、ユダヤ人が優秀であると言われる背景には、これらの要素が、彼らの教育の中心にあるからではないかとさえ思います。
日本の教育論も、目的と手段を混同しないで、まず目的に関する討論がなされることを望むものです。
2015年6月17日水曜日
2015年6月10日水曜日
113:「ビジネスは平和時における戦争の形態である」
ほぼちょうど1年前に、アメリカの「戦争省」のことについて書きました。
そして今年、安倍総理の70周年談話策定の最終段階に入ってきているようです。
ここで、もう一度、平和ということについて書いてみたいと思います。
平和国家日本が世界に訴えたいことのひとつは、平和国家として平和を唱えるだけでなく、また戦争反対を繰り返すだけでなく、戦争を未然に予防するための方法論を確立しよう、という提唱だと考えます。
そもそも人間社会には、常に対立・闘争があり、それがエスカレートすると、悪意や憎悪と化し、収集がつかなくなると武力闘争になります。
その結果、国対国の戦争という枠組みから、ISISやテロといった新しい戦争の形態が生まれています。
そこで、対立の状況から戦争という人殺しの状況に発展しないための、一線を越えないための方策を確立することを、日本のイニシアティブで発信することが、平和を唱える国の責務ではないでしょうか。
「ビジネスは平和時における戦争の形態だ」という言葉がありますが、これは非常に面白い考え方です。
この考え方に立てば、ビジネスが本物の戦争状態に発展しないように、法律など、様々な社会的な決まりがある、とも考えられます。
これを実際の戦争にも当てはめることはできないでしょうか?
つまり繰り返しになるかもしれませんが、国際的な規模で方法論を模索し、みなでその決まりを守ることで、戦争状態への突入を避けることはできないだろうか?ということです。
貧乏反対!を唱えるだけでは暮らしはよくなりません。
と言ったら平和運動を展開している人たちに失礼でしょうか。
そして今年、安倍総理の70周年談話策定の最終段階に入ってきているようです。
ここで、もう一度、平和ということについて書いてみたいと思います。
平和国家日本が世界に訴えたいことのひとつは、平和国家として平和を唱えるだけでなく、また戦争反対を繰り返すだけでなく、戦争を未然に予防するための方法論を確立しよう、という提唱だと考えます。
そもそも人間社会には、常に対立・闘争があり、それがエスカレートすると、悪意や憎悪と化し、収集がつかなくなると武力闘争になります。
その結果、国対国の戦争という枠組みから、ISISやテロといった新しい戦争の形態が生まれています。
そこで、対立の状況から戦争という人殺しの状況に発展しないための、一線を越えないための方策を確立することを、日本のイニシアティブで発信することが、平和を唱える国の責務ではないでしょうか。
「ビジネスは平和時における戦争の形態だ」という言葉がありますが、これは非常に面白い考え方です。
この考え方に立てば、ビジネスが本物の戦争状態に発展しないように、法律など、様々な社会的な決まりがある、とも考えられます。
これを実際の戦争にも当てはめることはできないでしょうか?
つまり繰り返しになるかもしれませんが、国際的な規模で方法論を模索し、みなでその決まりを守ることで、戦争状態への突入を避けることはできないだろうか?ということです。
貧乏反対!を唱えるだけでは暮らしはよくなりません。
と言ったら平和運動を展開している人たちに失礼でしょうか。
2015年6月5日金曜日
112:国防と殉職
集団的自衛権についての論議が最近活発ですが、この中で、関係者が意図的に避けている論点があるように思います。
それは端的に言えば、日本の自衛隊であれ他国の軍隊であれ、いったん戦争状態になれば、隊員の殉職が「あり得る」という可能性についてであります。
このことは、警察官や消防士であれば、最悪の場合、職務中に命を落とす場合があることを承知の上で任命を受ける……ということと何が違うのでしょうか?
はっきり言えば、自衛隊の隊員は、日本の防衛のため命を落とす可能性があることを承知の上で職に就いたはずだ、ということです。
また、国民もマスメディアもそのことを認識しても良いのではないでしょうか?
同盟関係なくして一国の防衛ができないという状況は、みなが認めるところでしょう。
「あってはならないこと」ではなく「あり得ること」として、自衛隊員が殉職するかもしれないことを認めたうえで、安全保障を考える必要がある、と考えます。
このことを言い出し、いわゆる「進歩的知識人」により袋叩きに遭うのを恐れて、あえてこの可能性に触れずに議論が進んでしまう、というどうもおかしな状況があるように思います。
外国の友人と安全保障に関する議論をするときに、「日本の人たちは、戦争状態になった場合、自国を防衛するために、自衛官が犠牲になるということがあってはならないと考えているのか」と問われることがあります。
私は答えに窮します。
それは端的に言えば、日本の自衛隊であれ他国の軍隊であれ、いったん戦争状態になれば、隊員の殉職が「あり得る」という可能性についてであります。
このことは、警察官や消防士であれば、最悪の場合、職務中に命を落とす場合があることを承知の上で任命を受ける……ということと何が違うのでしょうか?
はっきり言えば、自衛隊の隊員は、日本の防衛のため命を落とす可能性があることを承知の上で職に就いたはずだ、ということです。
また、国民もマスメディアもそのことを認識しても良いのではないでしょうか?
同盟関係なくして一国の防衛ができないという状況は、みなが認めるところでしょう。
「あってはならないこと」ではなく「あり得ること」として、自衛隊員が殉職するかもしれないことを認めたうえで、安全保障を考える必要がある、と考えます。
このことを言い出し、いわゆる「進歩的知識人」により袋叩きに遭うのを恐れて、あえてこの可能性に触れずに議論が進んでしまう、というどうもおかしな状況があるように思います。
外国の友人と安全保障に関する議論をするときに、「日本の人たちは、戦争状態になった場合、自国を防衛するために、自衛官が犠牲になるということがあってはならないと考えているのか」と問われることがあります。
私は答えに窮します。
2015年6月3日水曜日
111:米国プレシディオ国立公園
先月上旬、母校(DePauw大学)の理事会に出席のため訪米し、帰りにサンフランシスコに立ち寄りました。
目的は、サンフランシスコ平和条約が締結されたオペラハウスと、安全保障条約が署名されたプレシディオ国立公園を再度ぜひ訪問してみたかったからであります。
このオペラハウスは、第一次世界大戦を記念して建てられたもので、正式名称をWar Memorial Opera Houseと言います。
余談ですが、私がここを初めて訪問した際、このWar Memorialという名称に違和を感じたのを覚えています。
そして、返信は期待することなく、当時のブラウン市長にWar MemorialをPeace Memorialに変えてはどうかという意見書を出したものでした。
当時、吉田茂元総理はプレシディオ陸軍基地(当時)に向かい、そこで日米安全保障条約を一人で証印をしたと言われているようです。
しかし、展示された当時の記念写真の中の、吉田茂が周りをアメリカ人関係者(ディーン・アチソン国務長官やジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問)などに囲まれ、座して書面にサインしているものに、なんと池田勇人の顔が半分写りこんでいることを発見させられたのです。
吉田元総理が「一人で」調印したというイメージが強かっただけに、これには驚きました。
そして、ほど近くにはゴールデンゲートブリッジもありますが、この太平洋側に多くの砲台跡があるのにもやはり驚きました。
これは、太平洋戦争当時、日本の攻撃を想定して造られたものだそうです。
この夏の安倍総理の敗戦70周年談話が草案されているおり、私自身も日米関係に関して様々なことに考えを巡らせている最中に、このようないくつかの驚きがあったことは新鮮で面白い体験でした。
目的は、サンフランシスコ平和条約が締結されたオペラハウスと、安全保障条約が署名されたプレシディオ国立公園を再度ぜひ訪問してみたかったからであります。
このオペラハウスは、第一次世界大戦を記念して建てられたもので、正式名称をWar Memorial Opera Houseと言います。
余談ですが、私がここを初めて訪問した際、このWar Memorialという名称に違和を感じたのを覚えています。
そして、返信は期待することなく、当時のブラウン市長にWar MemorialをPeace Memorialに変えてはどうかという意見書を出したものでした。
当時、吉田茂元総理はプレシディオ陸軍基地(当時)に向かい、そこで日米安全保障条約を一人で証印をしたと言われているようです。
しかし、展示された当時の記念写真の中の、吉田茂が周りをアメリカ人関係者(ディーン・アチソン国務長官やジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問)などに囲まれ、座して書面にサインしているものに、なんと池田勇人の顔が半分写りこんでいることを発見させられたのです。
吉田元総理が「一人で」調印したというイメージが強かっただけに、これには驚きました。
そして、ほど近くにはゴールデンゲートブリッジもありますが、この太平洋側に多くの砲台跡があるのにもやはり驚きました。
これは、太平洋戦争当時、日本の攻撃を想定して造られたものだそうです。
この夏の安倍総理の敗戦70周年談話が草案されているおり、私自身も日米関係に関して様々なことに考えを巡らせている最中に、このようないくつかの驚きがあったことは新鮮で面白い体験でした。
2015年5月29日金曜日
110:NPT最終文書案
平成27年5月23日付産経新聞の記事で、NPT(核拡散防止条約)最終文書案をめぐる交渉についての報道がされました。
見出しでは「中国 歴史で押し切る」、「『想定外』 日本、苦しい交渉」とありました。
日本はこの文書案に、広島・長崎へ世界の指導者の訪問を促す文言を盛り込もうという動きだったようですが、中国の軍縮大使の「日本は戦争の被害者の立場を強調している」という予期せぬ批判に遭い、結局この文面は削除されてしまった、ということでした。
「被爆地訪問」は「被爆した地域の経験を直接共有する」といったような後退した形で一応は文書案に残ったようですが、核廃絶問題にまで歴史認識を絡めるという中国の行動に日本側は苦戦した、ということでした。
この中国代表の発想は、犠牲になった被爆者や負傷者の立場を冒涜していると私は思います。
なぜならば、原爆の被害者が、加害者である米国に対して謝罪や賠償を要求した事実は聞いたことがないからです。
唯一の被爆国である日本が、核の拡散防止に対して平和を愛する国民としての発信にもっと工夫が必要であると感じました。
この日本の発信が、より説得力のあるものになったら、と思います。
その背景として、上記のように、日本は米国に対して、謝罪や損害賠償を要求していないという事実を重く考えたいものです。
見出しでは「中国 歴史で押し切る」、「『想定外』 日本、苦しい交渉」とありました。
日本はこの文書案に、広島・長崎へ世界の指導者の訪問を促す文言を盛り込もうという動きだったようですが、中国の軍縮大使の「日本は戦争の被害者の立場を強調している」という予期せぬ批判に遭い、結局この文面は削除されてしまった、ということでした。
「被爆地訪問」は「被爆した地域の経験を直接共有する」といったような後退した形で一応は文書案に残ったようですが、核廃絶問題にまで歴史認識を絡めるという中国の行動に日本側は苦戦した、ということでした。
この中国代表の発想は、犠牲になった被爆者や負傷者の立場を冒涜していると私は思います。
なぜならば、原爆の被害者が、加害者である米国に対して謝罪や賠償を要求した事実は聞いたことがないからです。
唯一の被爆国である日本が、核の拡散防止に対して平和を愛する国民としての発信にもっと工夫が必要であると感じました。
この日本の発信が、より説得力のあるものになったら、と思います。
その背景として、上記のように、日本は米国に対して、謝罪や損害賠償を要求していないという事実を重く考えたいものです。
2015年5月27日水曜日
109:21世紀構想懇談会
この懇談会の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」というなんとも長たらしいものですが、この会議はすでに5回開催されたとの報道がありました。
この安倍総理の戦後70年談話を発信することについて、世間では意見が分かれています。
色々な意見が出ましたが、しかしひとまずこの談話が行われることは確実だと思われます。
そこで重要なのは「談話の目的は何なのか?」ということです。
それは下記のような項目ではないか、と私は考えます。
①日本の人たちが真に世界平和に貢献したいと思っていることが伝わること
②非西洋文化からの世界社会への平和に関する斬新なメッセージであること
③日本国としての尊厳が高らかに掲げられること
④多くの人たち(国内外)から賛同が得られること
⑤日本国としての世界社会における役割が具体的に表明されること
一人の日本人として、今回の安倍談話がどのようなものになるか、ということに大変関心がありますし、ぜひともそれが「さすが日本!」と呼ばれるようなものであってほしいのです。
内容については、この懇談会が提示し、最終的には安倍総理が策定することになるのでしょうが、それが、これまでにない格調の高い、上に挙げたような項目を達成できるものになって頂きたいと思います。
そして、唯一の被爆国であるからこそ、「平和とはなんであるか」「防衛費の使い道はどうするか」について全く新しい次元の、未来を見据えた発信してほしいのです。
このような内容を反映した70年談話となることを望みます。
なお、この件については継続して具体的な考え方を発信したいと考えています。
この安倍総理の戦後70年談話を発信することについて、世間では意見が分かれています。
色々な意見が出ましたが、しかしひとまずこの談話が行われることは確実だと思われます。
そこで重要なのは「談話の目的は何なのか?」ということです。
それは下記のような項目ではないか、と私は考えます。
①日本の人たちが真に世界平和に貢献したいと思っていることが伝わること
②非西洋文化からの世界社会への平和に関する斬新なメッセージであること
③日本国としての尊厳が高らかに掲げられること
④多くの人たち(国内外)から賛同が得られること
⑤日本国としての世界社会における役割が具体的に表明されること
一人の日本人として、今回の安倍談話がどのようなものになるか、ということに大変関心がありますし、ぜひともそれが「さすが日本!」と呼ばれるようなものであってほしいのです。
内容については、この懇談会が提示し、最終的には安倍総理が策定することになるのでしょうが、それが、これまでにない格調の高い、上に挙げたような項目を達成できるものになって頂きたいと思います。
そして、唯一の被爆国であるからこそ、「平和とはなんであるか」「防衛費の使い道はどうするか」について全く新しい次元の、未来を見据えた発信してほしいのです。
このような内容を反映した70年談話となることを望みます。
なお、この件については継続して具体的な考え方を発信したいと考えています。
2015年5月22日金曜日
108:旧帝国陸軍の亡霊
旧帝国陸軍の参謀会議において、次のような会話があったとしましょう。
とある参謀Aが、作戦計画の発表を行っています。
これは彼の優秀な部下が作成したもので、彼自身も非常に自信を持っています。
しかし、別の参謀Bが「作戦計画のこの部分に問題はないか?」と問うたとしましょう。
するとAはにわかに感情的になり、「私の計画にケチを付けるのか!?」と怒り始めます。
B「問題が起きたらどうするのだ」
A「総力を結集して当たる」
B「その総力が突破されたらどうするのだ」
A「その時は私が腹を切るから大丈夫だ」
…………
これはほとんど笑い話みたいなものですが、一概に馬鹿にできるものでもないでしょう。
日本の組織文化の中に、潜在的にこのような発想が残っているのではないかと危惧します。
こういう状況を改善するためには、上長が、部下からある案を提示されたときに「君、問題なくできるね?」とか「大丈夫だね?」といった質問は、安易なものでしょう。
その代わりに「この案の問題点はどこか」「それらに対して手は打ってあるのか」といった発想が有効です。
なぜなら、将来起こりうるリスクを予め想定し対策を用意しておく、という考えを示唆しているからです。
上に挙げたような古い考え方は、グローバルに通用するものでないのは自明であります。
日本人はそろそろこの「亡霊」を追い払うときではないでしょうか。
とある参謀Aが、作戦計画の発表を行っています。
これは彼の優秀な部下が作成したもので、彼自身も非常に自信を持っています。
しかし、別の参謀Bが「作戦計画のこの部分に問題はないか?」と問うたとしましょう。
するとAはにわかに感情的になり、「私の計画にケチを付けるのか!?」と怒り始めます。
B「問題が起きたらどうするのだ」
A「総力を結集して当たる」
B「その総力が突破されたらどうするのだ」
A「その時は私が腹を切るから大丈夫だ」
…………
これはほとんど笑い話みたいなものですが、一概に馬鹿にできるものでもないでしょう。
日本の組織文化の中に、潜在的にこのような発想が残っているのではないかと危惧します。
こういう状況を改善するためには、上長が、部下からある案を提示されたときに「君、問題なくできるね?」とか「大丈夫だね?」といった質問は、安易なものでしょう。
その代わりに「この案の問題点はどこか」「それらに対して手は打ってあるのか」といった発想が有効です。
なぜなら、将来起こりうるリスクを予め想定し対策を用意しておく、という考えを示唆しているからです。
上に挙げたような古い考え方は、グローバルに通用するものでないのは自明であります。
日本人はそろそろこの「亡霊」を追い払うときではないでしょうか。
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